LOGIN村の坂道を登りきった先に、小さな木造の校舎が建っている。
瓦屋根は色あせ、窓ガラスは白く曇っている。運動場の隅には雑草が伸び、朝の光に濡れた草の匂いがただよっている。教室の扉の前に立つと、古びた木の匂いが鼻を突き、心臓がやけに早く鳴る。
担任の教師に背中を押されて戸を開けると、がやがやしていた声がぴたりと止んだ。生徒達の視線が一斉に集まってくる。このクラスは梓を含めて五人しか生徒がいない。片田舎の学校では普通なのだろう。上級生は二人しかいないそうだ。
「今日から新しく転校してきた矢野梓さんじゃ。みんな、仲良うしてあげてくれんかのぅ」
担任の教師は、初老の男性。
白髪が交じり始めた頭に、太い四角い黒縁の眼鏡。 彼の声に、教室の空気が少し和らぐ。最前列から、一人の女の子が立ち上がった。
黒髪をきちんと二つに結んで、胸元には小さな学級委員のバッジが光っている。背筋はぴんと伸びていて、目の奥に責任感の光を宿している。「転校生さんやね。私、美穂よ。学級委員をしとるけぇ。困ったことがあったら、何でも言うてくれんさい」
はっきりした声が教室に響いて、場の緊張をやわらげてくれた。この子が立つだけで「この場をまとめるのは私よ」と言っているような、そんな頼もしさがある。
その隣で、一冊の分厚い本を閉じる音がした。
髪は少し伸び気味で、眼鏡の奥の瞳はどこか内向的。でも本を撫でる手つきは優しくて、言葉を選ぶように口を開く。「僕、健太じゃ。本ばっかり読んどるけぇ、あんまり役に立たんかもしれんが」
小声でそう言うと、耳の先まで真っ赤になった。その不器用さがかえって愛きょうを生んでいる。
後ろの席から、ぱっと明るい声が飛ぶ。
頬にかかった髪をリボンで留めて、笑うとえくぼができる。いすの背もたれに身を乗り出して、手をぶんぶん振っている。「私、あゆみ! ねえねえ、梓ちゃんって東京から来たんやろ? 夜でも町が光っとるって本当やけ? 私も、いつか行ってみたかとよ!」
弾む声に教室がくすくす笑って、場の緊張が一気にやわらいだ。
無邪気な憧れと好奇心の混じった視線が梓に降り注ぐ。 教室の空気が和んだところで、担任の教師が出席簿をめくった。「さて、今日は初等部一人お休みじゃな。昨日から熱が下がらんそうじゃ」
さらりと告げられると、健太たちが「大丈夫かのう」「早う良うなるといいがなあ」と心配そうにつぶやいた。
みんなの優しさに胸が温かくなる。梓はそっと深呼吸して、黒板の前に立つ影を踏みしめた。
この村で、新しい自分が始まる気がした。「さあ授業を始めるとよ。昨日の続きじゃけんの。矢野はまだ教科書がなかけぇ、虚木、そばで見せちゃってやりんさい」
清音が机を寄せて、二人で身を寄せ合って一冊の教科書に目をやる。彼女の体温が伝わってきて梓の体温も少し上がったような気がした。
授業の内容はさして高度ではなく、梓には難なくついて行ける物だった。
――授業が終わると、あゆみがぱたぱたと駆け寄ってきた。
まるで人なつっこい子犬みたいな子だ、と梓は微笑ましくそれを受け入れる。「梓ちゃん、本当に東京にはコンビニっていうお店があるん? 二十四時間開いとるんやろ?」
目をきらきらさせて質問してくる。梓は少し戸惑いながらも答えた。
「うん、コンビニは夜中でも開いてるよ」
「すごかねえ!この村、携帯も繋がらんし、電話も村長さんの家にしかないけぇ、外の世界のことがようわからんとよ」
あゆみの弾むような声に、健太が本から顔を上げた。普段なら人の話にあまり加わらない彼が、あゆみが話していると聞き入るように見つめている。
「そうそう。僕も東京の本屋さんのこと、古い雑誌でしか知らんとよ。神保町とか、古本屋さんがようけあるんやろ?」
健太があゆみの方を見ながら、いつになく饒舌に話し始める。本の話になると急に生き生きとするのだが、今日はそれ以上に、あゆみと話せることが嬉しそうだった。
でもあゆみは健太の顔はほとんど見ずに、梓の方を向いたまま続けた。
「ねえねえ、渋谷とかハチ公とかも本当にあるん? 雑誌で見たことあるけど、すっごい人がおるんやろ?」
健太の表情が、ほんの少しだけ曇る。それを見ていた美穂が、優しく口を挟んだ。
「健太くん、東京の図書館とかも大きいんやろね?」
美穂は健太の興味のありそうな話題を振って、彼を会話に引き戻そうとしている。その気遣いは自然で温かい。健太は美穂に向かって、少し照れながら答える。
「うん、きっと何万冊もあるんやろうなあ。一日じゃ回りきれんくらい」
美穂が健太の話を聞く時の表情は、とても優しい。でも健太の視線は、やっぱりあゆみの方に向いてしまう。
その微妙な三人のやり取りを見ていて、梓は思わずくすりと笑った。恋って、こんなふうに複雑なものなんだろうか。
「みんな、梓さんが困ってしまうやろ」
美穂が苦笑いしながら注意したが、その表情も優しかった。
そのやり取りを見ていて、梓は気がついた。自分が笑っている。母親が亡くなってから、初めて心から笑った。
「良かったじゃね、みんなと仲良うなって」
ふと振り返ると、清音が静かに微笑んでいた。方言の優しい響きに、梓の心臓が激しく跳ね上がる。頬が熱くなって、息が少し乱れてしまった。こんなふうに誰かを意識するなんて、生まれて初めてのことだった。
処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。 炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。 吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。「今のは一体……」 千鶴が唖然としたようすで呟く。 吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。 左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。「ふぅ……」 治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。 窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。「古い建物だから隙間風が――」 カルテの名前が目に入る。 ――森谷健太。 そうだ。 ――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。 吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。 目指していたものは、一番上に乗っていた。 ――林田美穂。 吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。 森谷健太。 林田美穗。 その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。 記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。 昨日まで確かにそこにいた子供たち。 診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。 友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。 畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。「……なぜ……」 昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。 なぜ、自分は彼らを忘れていた? 突発性健忘症? こんなことがあり得るのか? 吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。 記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。 彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。「行かなくては……確認を……」 吉川は声を絞り出すように言った。 眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。 入院室――そこには少女の遺体が安置されている。 あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。 廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。 千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。 入院室の戸を開ける。 千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。「先生
机に並んで座る三人の姿が、ふいに脳裏に浮かんだ。 放課後の図書室。窓から射す夕陽が机を赤く染め、本棚の影が長く伸びていた。 中央にいたのが自分だった。白衣を目指して医学や生物の本ばかりを手に取り、難しい専門用語に眉をひそめていた。髪は真面目に刈り込んでいたが額にかかることが多く、いつも指で払いのけていた。 片側には、古い民俗誌や怪談集を積み上げている彼がいた。くしゃりとした髪に、笑いかけるときだけ片目を細める癖がある。鉛筆を指でくるくる回し、紙に線を引く音がやけに楽しげに響いていた。自分が医学書の難解な図表と格闘している間、彼は軽やかに文字を追い、時折「へえ」「そうか」と小さく呟いていた。 もう一方には、彼女がいた。肩にかかる髪は柔らかく、光を受けると茶色がかって見えた。目元は涼しげで、笑うとえくぼが浮かぶ。いつもノートを広げ、特別な意味もなさそうにページをめくっていたが、その仕草を見ているだけで心が落ち着いた。 三人並んで座るその時間は、互いに多くを語らなくてもよかった。ページをめくる音と、鉛筆の走る音が重なり合い、それだけで胸が満たされていた。この静けさが、吉川には何よりも貴重だった。 「お前は医者になるだろ」 民俗誌の本を閉じて、彼が笑いながらこちらを見た。 「お前は書き続けるんだろ」 自分も思わず言い返した。冗談めいたやりとりだったのに、不思議とどちらにも確かさがあった。 「私だってそうよ。いつかプロの小説家になるんだから」 彼女が少し誇らしげに言った。 二人の会話を聞きながら、吉川は妙な居心地の悪さを感じていた。彼らには「創作」という共通点がある。書くことで繋がっている。一方、自分が目指すのは医師という、どこか孤独な道だった。 彼女は、そんな吉川の表情を見て、ふっと微笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、時折影が差すのを、吉川は見逃さなかった。まるで三人の未来の分かれ道を、先に知っているかのように。 窓の外からは運動部の掛け声が遠くに届いていた。けれどこの机の上に並んだ影は、夕陽の赤に溶けあい、三人だけの世界を作っていた。◆ 夏休みの午後、自転車をこぐ足が熱を帯びていた。 話の始まりは、彼が町外れにある廃神社の噂をどこからか仕入れてきたことからだった。 男二人で、ゆっくり一晩話そう、と肝試しも兼ねてキャンプ、というか野宿を
処置室に安置された遺体を前に、吉川は白衣の袖を整えた。 戸口のあたりにはまだ村人たちが群れており、笑顔のままこちらを見守っている。視線の重さが、器具の音よりも胸を圧迫していた。「……ここから先は私の領分です。皆さんはお帰りください」 努めて平静な声で告げる。 ざわめきは起こらなかった。ただ、一人が頷き、また一人が頷き、笑顔のまま戸口から外へ引いていく。足音も声もなく、列をなすように退いてゆく光景に、吉川は背筋を冷たいものが走るのを感じた。 ただ一人、清一だけが残った。 白髪交じりの頭を少し傾け、口元に笑みを貼りつけたまま、処置室の奥へと視線を向けている。「先生。わしは、ここにおった方が……」 言葉は柔らかかった。だが眼差しには、執拗な光が潜んでいた。 吉川は眼鏡の奥で視線を受け止め、低く返した。「村長。これは医者の仕事です。外の方がよろしいでしょう」 一瞬だけ、清一の笑みが深く刻まれたように見えた。だが反論はなく、静かに踵を返す。 戸口から去り際に、振り向きもせずただ黙って。 戸が閉じる。 残されたのは吉川と千鶴、そして処置室の中央に横たわる無惨な躰だけだった。 処置室の空気が落ち着くと、吉川は息を吐き、机の引き出しからカメラを取り出した。 記録用のデジカメ。大学病院時代から癖のように携帯している。 この村には症例記録のためにと持ち込んだものだった。 脳内でもう一人の吉川が声を上げる。手軽にスマホで撮影すればいいんじゃないか? が、次の瞬間その声はかき消された。 スマホ? スマホって何だ? ……訳のわからない妄想に付き合っている暇はない。今はこの目の前の現実を記録しなくては。「千鶴さん、照明をもう少し強く……窓も開けて光を入れてください」 千鶴が慌ただしく応じる。窓を引くと冷たい朝の空気が流れ込み、鉄と血の臭気を攪拌した。白布を押さえながら立つ千鶴の顔は、強ばりきっていた。 吉川はカメラを構え、ファインダーを覗いた。 ――少年の躰。 皮膚は裂け、腹腔は空洞のように見える。光が差し込み、影が深く沈んだ。 シャッターを切るたび、乾いた音が静寂を裂く。 カシャン。 肉と血の映像が、冷たいガラスの奥に焼き付けられていく。 全身を数枚。顔、裂け目、四肢の欠損。 医学的には必要不可欠な記録だが、レンズを通して覗く
息が切れるのも構わず、吉川は村の道を駆けていた。 朝霧がまだ地を這い、畦道の水面を白く曇らせている。遠くで鶏が鳴き、集落はまだ目覚めきっていない。だが彼の胸は、喉を掴まれるような焦燥で焼けついていた。「先生、待ってください……!」 後ろから千鶴の声が追う。裾をかき寄せ、転びそうになりながらも、必死に足を運んでいた。 彼女の顔は青ざめ、汗で乱れた髪が頬に張りついている。普段は静かな笑みを絶やさぬ千鶴が、今は怯えを隠そうともしなかった。あの時、佐藤家で千鶴が報告してくれた言葉を思い出す。(診療所に……し、死体が運び込まれました!) その声は震えていた。◆ 診療所の前には、すでに村の男衆が集まっていた。誰も声を荒げず、ただ口元に同じ笑みを貼りつけ、互いに頷き合っている。その中央に立つのは村長・清一。背筋を伸ばし、白髪交じりの頭を朝の光に光らせ、まるで儀式の進行役のように静かに構えていた。 地面には古びた戸板が置かれ、その上に二つの躰が並べられていた。 少年と少女――そうとしか言えない背丈と骨格。辛うじて服が体に張り付いている。皮膚は内側から裂け、腹も胸も四肢も、肉の継ぎ目という継ぎ目に亀裂が走っている。外から囓られただけでははなく、臓腑から圧を受け爆ぜたような裂開もある。少年の遺体は左手すら肩から先がなかった。 血液はほとんど残っておらず、床を汚すはずの赤はどこにもない。鼻を突くのは鉄の臭気だけ。「……山の中で見つかりましてな」 清一の声は低く穏やかだった。「猟師衆が知らせてきて、こうして運ばせてもろうた」「……朝方な、山鳥を撃ちに川ん方へ出とりましてな」 肩幅の広い庄司が口を開いた。銃袋を背に、片手を腰に当てながら淡々と告げる。「道路が血まみれでのう、鼻が曲がるような匂いしとったけぇ。そしたら野犬どもが群れとってな……死体を食い破っとったんじゃ。見ての通り、ひどいもんで」 吉川は戸板を見つめた。 顔の皮膚は裂け、骨がむき出しになっている。だが断片的な形は、知っている。診療所で診察に来たあの眼差し。 ――誰だ。名前が出てこない。 いや、気のせいなのか? 記憶にある、と思い込んでいるだけなのだろうか。 喉が震え、思考が霧に覆われる。眼鏡の奥で必死に目を凝らした。少年と少女の面影は確かにそこにあるはずなのに、言葉として結べない。
夜、布団に入ったあと。 寝息の落ち着いた陽一を横に、沙織は勇気を振り絞った。「俊夫さん……やっぱり、一度診てもらったほうがいいと思うの」「なんだと?」 俊夫が身を起こし、低い声で繰り返す。「俺を疑ってるのか」「違うの、ただ心配で……」「俺は元気になったんだ。お前も喜べばいい」 笑みを浮かべながらも、声は荒々しく、瞳の奥にぎらりと光が走った。 沙織は胸が縮み、言葉を失う。疑ってはいけない。否定すれば、もっと遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が喉を塞いだ。 隣で陽一が寝返りを打ち、小さな寝息を立てている。家族を守るはずの家の中で、沙織だけが冷たい孤独に閉ざされていた。 ◆ その夜遅く――突然、俊夫が暴れ始めた。 赤く沈む陽が山の端を染め、影を長く伸ばしていた夕暮れから数時間。沙織が台所で夕食の片付けをしていると、居間から異様な音がした。 何かが畳を引っ掻く音。そして、低い呻き声。「俊夫さん?」 駆けつけると、俊夫が床に膝をつき、全身を震わせていた。顔は赤黒く火照り、荒い息が喉を震わせている。「大丈夫……?」 近づこうとした瞬間――「うあああああッ!」 俊夫が跳ね起き、喉の奥から獣の咆哮を上げた。畳を裂く音、柱を揺らすほどの力。 赤く充血した眼がぎらりと光り、瞳孔が縦に裂けかける。 汗に濡れた胸板が脈打ち、全身の筋肉が浮き上がる。「俊夫さん!」 沙織は叫んだが、その時すでに玄関が激しく叩かれていた。「奥さん! 大変なことになっとるな! 大丈夫じゃから!」 メキメキと音を立てて、戸が無理矢理開かれると、男衆が十人以上、総出で駆けつけていた。まるで俊夫の暴発を予期していたかのような素早さだった。 その群れの後ろに、村長が――虚木清一が立っていた。 日に焼けた顔に穏やかな笑み。松明の火がその輪郭を照らす。 ――そして、その隣に佇む少女は誰だろう? まだ少女のはずなのに、村長の傍らに立つ姿は自然すぎた。 白い首筋をまっすぐに伸ばし、沈黙の中に不思議な威厳を帯びている。 周囲の大人たちが彼女を一目置くように距離を保っているのを見て、沙織の胸に違和感が走った。 なぜ、この子が――。「心配せんでええ、すぐ良うなるけぇ」「よう働きすぎただけじゃ」 口々に同じ言葉を並べながら、全員が笑顔を浮かべていた。 その揃いすぎ
その気持ちを振り切るように沙織は二人に声をかけた。「さぁ、朝ご飯の支度ができたわよ。二人とも食べてちょうだい」 沙織の声に食卓に着く二人を見て、今日も始まる村の一日に沙織は思いを馳せるのだった。 三人で食卓につく。湯気の立つ茶碗を前に、そろって手を合わせた。「いただきます」 陽一は夢中でご飯を頬張った。まだ熱いのに「あちち」と言いながらも、口いっぱいに詰め込む。「ゆっくり食べろ。喉につかえるぞ」 俊夫が笑って茶碗を支えてやる。「陽一、ピーマンも食べなさい」 沙織は箸で炒め物をつまみ、息子の皿にのせた。毎回このやり取りをしている。もう、本当に好き嫌いが多いんだから。ピーマンは油で炒めると苦味が減って、化学調味料を振ると更に食べやすくなる。こんなに工夫してるのに、相変わらず陽一はピーマンが苦手で、次の台詞まで予想出来た。「やだ、苦いから」 予想通りの言葉を口にした陽一は顔をしかめて、箸で端に寄せようとする。「好き嫌いしてたら大きくなれないわよ」 沙織の声が少し厳しくなる。「まあまあ、いいじゃないか。俺だって子供のころは嫌いだったんだ」 俊夫が笑いながら陽一の肩を抱き寄せる。全くこの人は。呆れ顔で沙織は敏夫の顔を見つめた。「な? 陽一」「うん!」 甘やかす声に、陽一は嬉しそうに笑った。子供が出来た時、私はムチ役で敏夫はアメ役。そう決めた時の遠い思い出が蘇った。「だから病気がちになるのよ」 沙織は呆れたように息をついた。だが、二人の笑顔を見ていると心の奥が温かくなる。 きゅうりの浅漬けをぽりぽり噛む音、味噌汁をすする音、箸の触れ合う軽やかな響き。 食卓に響く音の一つひとつが、東京では遠ざかってしまっていた家族の時間を取り戻してくれるようだった。 朝食を終えると、俊夫は力強く立ち上がった。「よし、今日は頑張るぞ!」 まだ朝靄が薄く残るなか、鍬を手に外へ出て行く。その足取りは軽やかで、昨日まで高熱で寝込んでいた人間とは思えない。 沙織は窓から遠く畑の様子を眺めた。小さく見える俊夫が鍬を振り下ろす音が、規則的にここまで響いてくる。 ――力が強すぎる。 沙織は思わず息を呑んだ。 岩混じりの畝を軽々と掘り返し、額に浮かんだ汗を乱暴に拭ってはまた土を割る。体の動きが機械的で、まるで疲れを知らないかのようだった。「お父さん、